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管理人さん、お久しぶりです。またおじゃまします。
三一書房版の竹中労著『聞書・庶民烈伝』下巻ですが、“近刊予定”のままでなかなかリリースされません。察するところ、未公開資料の編集に手間取っているようです。
このところ竹中の著書をあれこれ再読していて、以下のような感想を持ちました。下巻が出てから投稿しようと思っていましたが、その前に書かせてください。またも長文になってしまい恐縮に存じます。ご容赦を。
あの「竹中 労」は、『 断影 大杉栄 』(2000年・ちくま文庫・絶版)にて、「アナキズム」を、かく定義する。
【アナキストの美は乱調にあり、個別人間の適性と能力の“自由連合”、他者を統制しない寛容を、百家争鳴を留保しつつ組織の基礎に置く。しかも、強固な団結と不退転の闘争に同志を連帯するもの・それは、一人びとりの無私の愛である。報酬感謝を求めず、他者(人民・衆生・郷党といかようにでも言いかえてよい)のために、労を惜しまず命さえ損(す)てて厭わない、人間のやさしさである。】
さらに続けて…
【このような言い方を、甘っちょろい痴人のタワ言と嗤(わら)う連中は・アナキズムに、決して理会できない。諧調の“中央集権”、労働者階級を逆権力に構築して、国家権力にとって替ろうと、「党中央」をヒエラルヒーの頂点に置き・その統制を絶対化して、分派の粛正をくりかえす非情の論理に、ボルシェヴィキは堕ちこんでいく。
あるいは敵前で日和り、「多数派工作」に藉口して、革命を裏切るのである。むしろ、やさしさは過激と関わり、非情は妥協を生むパラドクスを、我々は歴史から学ばねばならないのだ。】(「襤褸の巷」 p141。初出は、1985年・現代書館・FOR BEGINNERS版。絶版)
…とも。
左翼陣営・総崩れの今このとき、竹中の指摘した懸念は、すでに過去のものとして忘れ去ってよいものか。
残念ながら、左右にかかわらず、ホモゲシュタルト的色彩を帯びがちな集団・組織は、宿痾のようなその非情の論理から免れることはできないだろう。したがってわが組織も、当然無縁とはいえまい。歴史に学ぶとは、それを知るということだ。
しからば、諧調の“中央集権”とは、そこでの何を意味するか。
ヒエラルヒーの頂点に置かれる「党中央」とは、誰を指すのか。
統制の絶対化を目論むボルシェヴィキとは、どの集団のことなのか。
そこでは、純朴かつ従順なる人民は、管理・指導の対象としての“愚民”となし、所詮、集票・集金の手段にすぎないと考えられてはいないか。
報酬感謝を求め、他者を省みず、労を惜しみ、多数派工作にうつつを抜かす輩は、そこにはいないと言い切れるか。
無私の愛・真のやさしさをたたえた人びとなど、本当にいるのだろうか。
以上をふまえ、暴論との謗りを甘受しつつ、私見を述べる(亡き竹中には迷惑かもしれないが…)。
「日蓮仏法(法華経)は、つまるところ、人間を個々の宿命から解放し、本来それぞれが内包している自力による・自らの再生へ、その実践者を導く思想だ。
牽強付会ではあるが、“過激”を手段とはしない、“左右を弁別せざる”アナキズム(=絶対自由主義)の異名ともいい得る。
ゆえにその実践者は、乱調の美を、統制なき寛容を、すなわち、真の『桜梅桃李(楊梅桃李)』を体現するアナキストに他ならない。
それは無私の愛の人、いや、『常不軽』の別名でもある」と。
であるならば、いささか飛躍するが、「師弟不二」とは、儒教的上下関係を規定するものにはあらず。“親分子分”の侠客的垂直構造を説明するものでもない。
日蓮のいう、「師が仏なら弟子も仏。弟子が地獄なら師も地獄(四条金吾宛・要旨)」との謂は、同じ地平を・師弟ともに手を携えて歩くという、今日的にいえば、水平思想・絶対平等主義の到達点といっても誤りではなかろう。
「師弟不二」は、それを標榜するキーワードなり、と解釈したい。
現体制に即していえば、ヒエラルヒー上位に位置する者、なかんずく専従的組織運営者は、管理職意識を棄て、“人民の召使い”として、外に向かって「人道的競争」の先頭を走るのでなければ、存在する意味はない。
猫なで声で人民(民衆)の膏血をむさぼる、狡猾な「師弟・利用主義」は、断固として排除されなくてはならない。
末端を睥睨する大将気取りや、内向きの、“ボル”感覚に染まった貴族的ダラ幹には、即刻の退場を促したい。
そのために何より強く求められるのは、民衆の側が、指令・指示頼みの依存体質をあらため、自律的判断力を養って思考停止状態から脱却することだ。
パラドクスのようではあるが、それには一人ひとりが、“広範な学び”によって自己の「信」を疑うことから始めるしかない。たとえ、その過程で一時的な混乱が生じても、淀みからの脱出・再生を果たすためにはやむを得まい。もとより仏法とは、自らが考える、つまり哲学する宗教であることを、虚心に想起すべきだ。
目指すべきは、権威への隷従ではなく、「個の確立」なのだ。そして、そのうえでの「連帯」だ。
竹中が、庶民衆生に依拠して示し続けた無私の共感を、われわれは“理会”するどころか、永いあいだ黙殺してきた。その不明を今こそ自覚するときではないか。
ともあれ、まずは『庶民烈伝』に学ぶことから始めてはいかがだろうか。(文中・敬称略。)
〔参考図書:ダニエル・ゲラン著『現代のアナキズム』三一新書 1967年。何と今なお刊行中。玉川信明著『アナキズム』現代書館 1987年。こちらは惜しくも絶版。〕
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