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全100件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 

福井屋(福井藩出店)について

 投稿者:越前櫻屋  投稿日:2009年 5月13日(水)12時13分9秒
   いつも、楽しみに拝見してます。
 ところで、福井県地域史研究(第12号)に本川幹夫氏が「幕末期、福井藩の他国交易についてー横浜・長崎・下関におけるー」を発表されてますが、その中に万延元年・江戸町に「福井屋」出店、長崎奉行へ届けたのは、翌年7月、文久元年・生糸輸出の「嘴矢」と記載されてます。
場所を特定したいのですが、当時の古地図等があれば、ご紹介いただけますか?
 

坂本龍馬が西洋料理をたべた?

 投稿者:増田泰之  投稿日:2009年 5月10日(日)07時46分50秒
  長崎市で開催中の「長崎さるく幕末編」の一環として、幕末の料理を味わう「幕末食さるくツアー」が9日、同市内であった。16人が参加し、坂本龍馬が長崎滞在時に食べたと思われる西洋料理を味わった。

長崎は、出島のオランダ商館で修業を積んだ草野丈吉が、1863年に日本初の洋食専門店「良林亭」(後の「自由亭」)を開いたことから、西洋料理発祥の地とされる。ツアーは長崎の食文化を観光につなげようと、市が初めて企画した。

参加者は、洋館が立ち並ぶ南山手・東山手地区を散策し、ホテルニュータンダ(同市常盤町)へ移動。西洋料理発祥のエピソードを聞いた後、竜馬の出身地・高知名物のカツオを使ったオードブルや、長崎の郷土料理のポルトガル風スープ「ヒカド」、龍馬が好んだとされる牛肉のステーキ、カステラを使ったデザートなど5品を味わった。
 

長崎さるく「長崎幕末・維新の道を往く」の研修

 投稿者:増田泰之  投稿日:2009年 3月27日(金)10時03分10秒
  勝海舟や坂本龍馬ゆかりの地、紀州藩との船舶事故「いろは丸事件」の談判が行われた聖福寺、幕末維新に劇的な転機を迎えた長崎奉行所跡など、隠れた史跡をめぐります。幕末維新の貴重な資料が展示してある長崎歴史文化博物館の観覧料も含むお得なコースです。

長崎歴史文化博物館(長崎奉行所立山役所跡)→西園寺公望仮寓跡→迎陽亭跡 →聖福寺(いろは丸事件談判)→福済寺→本蓮寺(勝海舟寓居の地、沢村惣之丞・お久の墓)

のガイド研修を受けました。このコースの目玉は、龍馬28歳が高知を脱藩した時に同行した21歳沢村惣之のお墓詣りが出来る事です。

http://www.saruku.info/course/Y046.html

 

小曽根乾堂 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 投稿者:増田泰之  投稿日:2009年 3月20日(金)15時16分54秒
  (こそね けんどう、男性、文政11年5月2日(1828年6月13日) 明治18年(1885年)11月27日)は、江戸時代末期から明治時代の日本の篆刻家である。明治政府の勅命により御璽・国璽を刻したことでしられる。

幼名を六郎太、六朗。諱を豊明、字を守辱、乾堂は号で室号を鎮鼎山房とした。通称は栄。長崎の人。

小曽根家の遠祖は武田勝頼の家臣とされるが、家祖は江戸時代初期の平戸道喜である。道喜は博多・平戸と移り、慶長年間に長崎本博多町に住み、古物商と外国貿易を生業とした。出島の南蛮屋敷の建設、眼鏡橋の修復、瑞光山永昌寺の建立など様々な事業を行った。この道喜の代に小曽根姓に変った。その後、家運が衰え乾堂の祖父の代には貧窮に陥ったが父六左衛門は幕末頃、越前藩や佐賀藩の御用商人となり長崎屈指の豪商になった。乾堂はこの父と母中山氏の第一子として生まれた。

また父六左衛門は文芸にも造詣が深く、竹影と号しているが篠崎小竹に因んだと言われる。古書画や古器物を愛玩し印癖があった。乾堂に対して文芸の道に秀でることを望み、その教育に熱心だった。乾堂はこれに応え、書は春老谷、水野眉川、銭少虎に学び、南画を鉄翁祖門に師事し、篆刻は長崎派の源伯民の流れを汲む大城石農に就いた。詩・書・画・篆刻に加え、音楽や陶芸にも造詣を得た。

音楽は月琴を好み、三宅端蓮の門下となり明清楽を学ぶ。これは来泊した林得建より伝えられた中国の伝統的な音楽である。後日、乾堂とその一門は東京の離宮においてこの明清楽の御前演奏の栄誉に浴している。「小曽根明清楽」と呼ばれ長崎から各地に伝わり浸透した。この流れは現在長崎の無形文化財に指定されている。

陶芸においては廃窯した亀山焼を息子の星海に再興するように託し、自宅の邸内に窯を開いた。陶工を各地から招き自らは鉄翁や木下逸雲らとともに絵付けを施している。小曽根焼もしくは鼎山焼と呼ばれ明治32年まで続いた。

とりわけ篆刻は優れた技能を発揮し、17歳の時には名士のもとめに応じて刻印している。21歳のとき自刻印の印譜『乾堂印譜』・『乾堂印藪』を刊行したが篠崎小竹・広瀬淡窓・草場佩川らがその序文で大いに賞賛している。また印籍『百花印箋』がある。30歳で江戸に遊歴し、14代将軍徳川家茂に謁見し鉄筆の隷書を献じて親書を下賜されている。

明治4年、明治政府から御璽・国璽の刻印を拝命される。従前の御璽・国璽が正しい印法・篆法に則っていないことを嘆き乾堂自身が政府に対して建白していた。乾堂は本来なら純金か玉で刻すべきであるとしながら、国費の倹約のためにあえて石印を刻して政府に献上した。しかし、これが裏目に出てしまい、しばらくのちに乾堂の印稿を元に安部井櫟堂が改めて純金製で拝刻した。

このあとすぐ日清修好条規締結のため全権大使伊達宗城の随員として清国に向かう。清国側の全権大使李鴻章に認められて「鎮鼎山房」の額を贈られる。

乾堂は文人としての活動ばかりでなく事業家としても大いに活躍した。松平春岳の援助を受けて父とともに浪の平海岸一帯の埋立事業をして港湾を整備し貿易の進展に尽くしている。

また坂本龍馬や勝海舟と関係があった。勝海舟と長崎妻の間に生まれた子の世話もしている。因みに海舟の印は乾堂の作である。龍馬の亀山社中のスポンサーとなり、後に海援隊となってからもその本部は小曽根家に置かれた。

晩年は小曽根小学校の創立、寺院や神社の創建、桟橋の架設、高島炭鉱の三菱への譲渡斡旋などの業績がある。

享年59。諡号は大器院白厳乾堂居士。浪平太平寺に墓所がある。
 

乾堂先生の墓について

 投稿者:宮崎秀隆  投稿日:2009年 3月19日(木)14時57分17秒
  お忙しい中にも拘らずに、早速もって、お調べいただき感謝しております。
勉強になりました。今後ともよろしくお願いいたします。
 

小曾根乾堂さんのお墓は、浪平太平寺です

 投稿者:増田泰之  投稿日:2009年 3月19日(木)12時13分28秒
  宮崎さんにお答えします。

3月9日に「龍馬の知恵袋小曾根乾堂」にも書いていますが、お墓は、浪平太平寺です。

先程、17代当主小曽根吉郎様に確認した所、「明治18年にコレラで乾堂さんは亡くなられ、その年に浪平太平寺に祭られた」との事でしたので、まちがいありません。

乾堂さんご夫妻の以外のお墓は、寺町皓胎寺にあります。
 

(無題)

 投稿者:宮崎秀隆  投稿日:2009年 3月18日(水)17時37分39秒
  小曾根乾堂さんのお墓は、墓碑銘の文中に皓胎寺内と記されておりますから皓胎寺にあると思いますよ。  

友人より

 投稿者:宮崎秀隆  投稿日:2009年 3月18日(水)14時02分43秒
  増田氏の龍馬に関しての入れ込みようはただ者じゃありません。単なるファンではないのですよ。時代の流れ、背景、書簡に基ずいての龍馬像を描かれておられます。増田氏の行動力は龍馬そのものではないだろうか。皆さんも増田氏の講演があれば聴きに行ってみてください。  

管理人様 すいませんでした

 投稿者:増田泰之  投稿日:2009年 3月18日(水)08時30分46秒
  岩田様
増田でございます。すいませんでした。

昨日の「私の友人から感激の言葉を!」は削除されてください!
 

管理人よりお願い

 投稿者:岩田祐作  投稿日:2009年 3月17日(火)15時48分34秒
  やぼなことを云うようですが、この欄は、「長崎のおもしろい歴史」について、専門的な研究事項などを投稿する場です。記載内容はその趣旨に反しないようご配慮をお願いします。最近の増田さんの投稿内容が、自己宣伝の具になっているように思いますので忠告します。管理人より  

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